世にも奇妙な乳癌闘病記

ひとりでも救われる人がいるなら…とブログを始めました。
肺の難病、乳がんステージ4は健在ですが何の治療もしていません。
にもかかわらず進行もしていません。
ですから病気や治療の参考にはならないブログです。

それでもこの奇妙な現実を知りたい方は、ぜひ最初から読んでみてください。
信じるか信じないかは全てお任せいたします。

義父

義父は既に他界しています。


次女が生まれてすぐに。

食道癌で亡くなりました。


だから私が義父と。

一緒に暮らしていたのは。

たったの5年間だけでした。



昭和7年生まれの義父でしたから。

ご想像の通り。

自己中心的と言いますか。

昭和の代表のような。

そんな人でした。



私が嫁ぐとき。

私の親戚中からは。


『大変だぞ』とか。


『苦労するぞ』とか。


そんな言葉しか。

言われなかったことを。

今でも覚えています。


主人にはもちろん。

言えませんでしたけどね。



けれど。

そんな周りの心配とは裏腹に。


私は義父と。

とても楽しい時間を。

過ごさせてもらったんです。



義父の晩酌時の話し相手は。

もっぱら私だけでした。


毎回毎回同じ話で。

家族が呆れる中。


それでも私は。

義父の話を聞くその時が。

とても心地良く。


義父の晩酌が終わるまで。

毎日付き合っていたものです。



それから義父とは。

食の好みも一緒でした。


私が喜んで食べるものだから。

義父はいつも。

私の好みに合わせて。


いくらの醤油漬けやら。

鯖の味噌煮やら。

甘エビの刺身やら。

いつも作ってくれていました。



長女の出産のために。

実家へ戻ったときは。

ホームシックになったほどです。


義父もまた。

『しょっぺもね~な~』


つまらないと。

言っていたそうです。



そんな関係性を。

知ってか知らずか。

長女が初めて話した言葉も。


『じぃちゃん』でしたしね。



義父が入院したときも。

誰よりも病院へ通ったのは。

私だと思います。



義父が亡くなったときも。

冷たくなるまで手を。

ずっと握っていたのも。

私だけでした。


義父の手は。

あっという間に。

その温度を無くしました。


その速さは今でも。

私の手のひらに残っています。



義父が亡くなる少し前。

義父は自ら。

趣味で飼っていた小鳥たちを。

それぞれ友人たちに。

託していました。


義父は小鳥たちの世話が。

何よりも好きでしたから。


義父なりに最期を。

悟っていたんだと思います。



義父の生涯の課題は。

小鳥たちの世話をすること。

だったのではと。


今頃になって私は。

思ったりしています。



だからこそ。

寿命と少しを生きた義父は。

自分の最期を悟り。

自ら身の回りの整理をして。


最後の入院を。

したのじゃないでしょうか。



最後の入院の日。

義父は私だけに。


『これが最後だから』


そう言いました。



やるべきことをやり終えると。

人は。

自分の最期までも。

見通せるようになるのでしょうか。


弱音を吐かず。

最後の最期までも。

昭和の代表のような。

そんな義父でした。


そんな義父を私は。

今でも誇りに思います。



子供たちもまた。

この気持ちを受け継いでいると。

私は感じているのです。


なぜならうちは。

お仏壇のことを。

『じぃちゃん』と。

そう呼んでいるからです。










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